2015-11-11

肉体と魂との関係を通して、真の存在を思い出す。



子供の頃、とても違和感を感じていた
1つのことがありました。

それは、お風呂に入る前、
脱衣所で服を脱いで入浴する前の
 
ほんの何秒かのことでした。

 
服はすべて脱ぎ終わったにも関わらず、
まだ何かを脱ぎきっていないような気持ちの悪い感覚がするのです。

 
そこには、更に脱ぐものがあるはずなのに、
実際には何も脱げるものはないという

なんだか後味の悪いような感覚。



その感覚は頻繁に訪れ、
子供の私にとてつもない気分の悪さをもよおす為

私はその感覚から逃げる様に急いで湯船に入り込み、
温かいお湯でその感覚を吹き飛ばすという事をしていたのです。


 
その感覚についてもっというと、
それは、
体の内側と外側両方から同時にやってくる
身震いのするほどの強い気持ち悪さで
言葉で表現するのがとても困難な感覚でありました。


そして、何かを纏いながらここで生きていることの、
生きにくさ
というものさえ同時に感じていたのを覚えています。



けれども年齢を重ねてゆくと共に、
いつの間にかそれは
私の中で忘れ去られたものとなってゆきました。




 
さて、昨日の夜のでき事です。
 
突如としてその感覚が、再び私を訪れました。


 
今や大人になった私に訪れたその感覚は、
あの頃体験していた気持ち悪さをそのまま感じるという
主観的なものよりも、


何かを再体験、追体験しているような
客観的な感覚でした。


そして、

「あ、これ、あの頃の・・・・・!」

とクリアに思い出すと同時に、

当時の私にはどうしても理解することのできなかったその実体に、
はっと気が付いたのです。



それは、
この、『肉体』を脱ぐ

という事でした。


私たちは、この社会において

肉体を持っての自分が、自分自身だと信じ込まされています。


けれども多くの、そして多方面からの研究により、
肉体は実は
この世で身に纏っている、
いわば借り物のようなものであり、

『真の私』というものは
『魂』のみである

という見解が語られ、普及し、
そしてさらに言えば、

「思い出されて」きています。



そう、古代からの叡智を綴られた書物には、
その事は当然のように、
または基本の事のようにさえ記されています。
(そしてその魂の、更なる源のついてもしるされていますよね)


その、本当の自分である
『魂』という存在が、
今の、この体の中に入っているという
自分の姿。


私は、子供の時にそれを、感覚として知っていた、
換言すれば、
覚えていたのかもしれません。


そして今、
成人になる少し前くらいから始まった
真実への探求を経て、

現在の、様々な面で統合してきている状態の私に、
まるであの体験をを理解させるためかのように

突如として追体験をさせられた感覚。



今、はっきりと、
その感覚の正体を理解することができました。


肉体を、脱ぐ。超える。脱皮する。


今私がここで表現しているその意味は、
死のことではありません。


この、肉体というものを身に纏っている、
本当の自分、魂。

その存在が
どんどんと私の中での位置を大きく占めてきて、

子供の頃に感じていた

『肉体』という制限の窮屈さを超え、

肉体自体、肉体そのものを超えている。


いえ、言うならばむしろ、

肉体も受け入れた、統合された全ての受容がここにある、

それを伝えられるかのように

ひとつの閃光として、現れたのでありました。



私たちは皆、
生を持ち始めた時点ではまだ、
真のピュアな姿と感覚を備えながら生まれてきています。

それがこの世の中で、社会の中で、
玉ねぎの皮のように
何層にも何層にもいろいろなものが重ねられ、
付け加えられてゆき、

いつのまにか
真の、本当の自分を
忘れ去っていってしまっているのです。


そしてある人は何かがきっかけで、
またある人は時間とともに自然に、

真の自分を思い出す時がやってきたりします。


その時から今度は逆に、
今まで重ねてきたその層を
剥いでゆく出来事が起こったり、
意図的にその作業をしたりして

素の、真の姿に戻ってゆくようです。



私もこれまで、
その層を一枚一枚はがす作業を繰り返ししてきました。
そして今でもその作業を続けている途中です。


けれども、子供の頃に感じていた
この地での生きにくさのような感覚は
すっかりなくなっています。


子供の頃のあの、
『脱ぎきれない』感覚。

それはまさに
肉体であり、
そしてあの時点ではその後重ねてゆくであろうという
『層』であり、

真の自分へ戻りたいという
根源的な欲求からきた感覚であったに他なりません。


今、時代の流れは、
いえ、次元の流れはどんどんと変化しています。


その中で、私と同じように
真の自分へ戻る旅の過程で、
様々な体験をしていらっしゃる方も多いかと思います。


それは、今まで経験したことのないような、
何かとても困難な体験かもしれません。

もしくは私のように、幼い頃の感覚を追体験し、
その意味を明確に理解できるといった
開眼的な体験かもしれません。


またはただ、何かに背中を押されるような、
または、時間と空間の中で
自分が泳いでいるような、泳がされているような
つかみどころのない抽象的な感覚かもしれません。


もしかすると、何か得体のしれない
恐怖心を抱えている方もいらっしゃるかもしれません。




自分の内側の声に、音に、感覚に
耳を澄ましてみて下さい。

答えは、そこにあります。

答えは、そこにしかありません。


外にあるのは、
自分自身がその内側の答えにたどり着くための、
道しるべ的なサインです。


そのサインをひとつひとつ受け取りながら、
内側にある、真の答えを見つける時。


この世は幻である、ホログラムである、
という一元性の考えの中で

真の自分、魂が属している大いなる存在に
溶け込むような絶対感を感じている一方で、

二元性の中での、
こんな、答え探しの遊びの旅を楽しんでみる。


その旅の道端に、
私が昨日見つけた、
肉体と魂の関係性という

追体験プラス
閃光的開眼のギフト。


今、この文を書いているこの瞬間も、
クラウンチャクラと松果体が
ジンジンとすごい勢いで
波打っているのを感じています。




今、これを読んでくださっているあなたの旅の道端にも、
多くのギフトがキラキラと輝きながら、
見つけられるのを待っています。

「探求の道は、苦しいことでも大変なことでもないんだよ。」

そういう風に、
私はあなたに伝えたい。


時として、実際問題として、
困難で大変な事であったとしても。。。


それは実は、光り輝くギフトの反対の側面、
例えて言うなら
コインの裏側をみているようなものかもしれません。

コインがころころと転がって、
ふと反対側の面が見えたとき。。。。。

すべてが真の存在につながる
キラキラとしたギフトだと、
気が付くかもしれません。。。



気づき始めている方が、
すごい勢いで増えています。


実生活の、私のまわりにも。
そしてメディテーションの中で感じる、
周波数の感覚の中でも。。。。



読んでくださって、どうもありがとう。

多くの方が、
輝くギフトと
真の存在への道をワクワクと楽しまれますように☆



※追記※

11月11日という日の強力なエナジーにサポートされながら書いた記事でした。

文中で昨日の夜と記しているのは、
実は既に日付は変わっていて
11月11日になっていたかもしれません。

11月11日については、
レムリアンティーチャーで、大切な友人でもある
Rieさんのブログに書いて下さっていますので、
どうぞご参照ください☆


 

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